公式サイト桑野式内画法姓名判断
桑野式内画法姓名判断/成り立ち<新しい姓名判断の誕生、継承から確立へ>
新しい姓名判断の誕生から継承までの真実の軌跡。そして素晴しい姓名判断への確立と宗家くわの擁齋の現在まで。
桑野式内画法姓名判断/桑野式の概要
五格四運、内画法、同格・同数現象、画数解説。名前の隠れた本質を読み取る桑野式の手法を厳選して紹介。
桑野式内画法姓名判断/著書紹介と声
桑野式の真髄と豊富な実例を取り上げた詳細・充実の姓名判断解説書。相談者から寄せられた多くの声も紹介。
桑野式内画法姓名判断/愉解!名前の達人
桑野式おもしろ講座。毎回、テーマに合わせた様々な視点から名前の魅力をやさしく解説。
桑野式内画法姓名判断/営業のご案内
赤ちゃん命名・改名・開運等の相談はオフィスくわのしきへ。くわの擁齋が名前と生年月日を通じて一人一人の個性にしっかり向き合う最新判断。
桑野式内画法姓名判断/過去の日々所感
独自の視点で見つめた雑感から名前の周辺にまつわるこぼれ話まで。くわの擁齋の日々なる想いを綴ったエッセイのバックナンバー。
成り立ち <誕 生>編
桑野式内画法姓名判断とは、義父桑野燿齊(後に嘉都朗と改名)が創始し、後継者として二代目宗家に任命された私くわの擁齋へ伝承された運命術です。一途な思いを抱いたピュアな魂の持ち主であった一人の若者が、わが身を痛めつけながら苦悶と修行を続け、そこから搾り出したエッセンスを結晶のように輝かせて結実させた、素晴らしい姓名判断です。父の歩んだ道のりを振り返りながら、この姓名判断が生み出された真実と奇跡のエピソードを紹介し、その存在を一人でも多くの方にご紹介したいと思います。
<誕 生>編
お客の鑑定につまずき、どういうふうに回答したらよいものやら−と思案しながら寝入った翌朝の八時から九時の間、私は母の夢を見たのです。夢の中の母は、悲しむ私を励まし、そして姓名判断の画数の解釈法や、内画法に関して一つ一つ教えてくれるのです。それに、今日鑑定に来るお客は、こんな悩みをもった人だと、教えてくれたのです。不思議なことには、夢の中の母が教えてくれた、同じ悩みをもった人が、必ず午後三時から四時にかけて、私を訪ねて来るのです。私は、夢で母に教わった方法でその人の悩みを解決してあげました。
―先代・桑野燿齊著「新しい姓名判断」より―
 −巌(いわお)に咲く花−
 桑野燿齊(以降、先代と呼称させていただきます)は昭和42年11月に初版「新しい姓名判断」を刊行、独自に編み出した占法を桑野式内画法姓名判断と名付けて発表しました。

 これはたいへんな偉業でした。他の出典からの引用やアイデアの拝借によることが、ごく普通に行なわれてしまっている占書とは一線を画し、統計データの裏付けに即しながらロジカルに組み立てることによって完成したこの姓名判断は、実はほとんど奇跡に近いものだったのです。

 情報化社会と称され、占いの解説本やサイトが氾濫する現在の状況においてもなお、その独創性と解釈の多様性、的中率の高さという観点において、先代の成し遂げた功績の凄さは、誰も真似の出来ないものであったと胸を張って明言することができます。

 「新しい姓名判断」という本のタイトルが現すとおり、それまで一般的に伝えられてきた姓名判断には全く存在しなかった、内画法、家庭運、社会運、同格、同数現象、運勢周期表・・・といった様々な革新的な新しい占法を発明、そして公開しました。それ以来、桑野式内画法姓名判断は、これまでの常識を覆すほどのパワーと影響力を放ちながら進化をつづけ、現在に至るまでその輝きを失うことはありません。

 今ではもう手に入らぬ名著「新しい姓名判断」は、一過性のブームのように消え去ることはありませんでした。その存在は色褪せることなく、出版以来じつに27年もの永きにわたり重版され続け、姓名判断という分野の出版物としては異例とも言える超ロングセラーを記録したのです。

 −生い立ち−
 先代は大正5年、台湾の台南州、塩水港製糖株式会社の社宅で生まれます。父親が台湾へ渡り技師として成功、退社後も当地で独立して隆盛を極めていたこともあって、何不自由のない少年時代を過ごしました。

 しかし、生来の病弱と恵まれすぎた環境に甘え、卒業後も仕事に専念するでなく自堕落な生活を送り、とうとう不良の仲間入りをしてしまったのです。

 当時の両親の嘆きと心痛は、たいへんなものでした。とりわけ、人の迷いや汚れた心を悲しみ、世の平和を願う信仰心の深かった先代の母は、栄華な生活に溺れ、努力して勤め励むことを忘れた放蕩息子の先行きを案じます。母として息子のために出来るのは、熱心に近所のお不動様に通いつめ、ただ一心に念ずることだけでした。

 −どん底−
 昭和20年、日本の敗戦。それと同時に収入の道を絶たれ、さらに財産も没収された一家は、無一物で博多へ引き揚げ、どん底の生活へと陥ったのです。

 それまでの環境から一変、先代は長男として、生きていくために否応なく働き、一日も早く一家を貧困から救わねばならない使命と責任を背負わされました。「このままでは駄目だ、自分を変えなければ」と、ようやく気づきます。これまでの性分を絶ち、強い意志を持つため、母が諭してくれた教えに従って、次のような願いをかけたのです。

 「向こう十年間は決して風呂に入らないこと。篠栗の滝(福岡県粕屋郡篠栗)まで十五里の道を歩き抜き、滝に打たれる行をおこなう」

 以来先代は、この言葉どおり福岡からバスでも一時間はかかる山の中の滝へ、夏も冬も毎週通いはじめました。

 −兆 し−
 そのうちに不思議な兆候が現れはじめました。

 眼に何やら幻影が浮かび上がるのです。見えた内容を解釈して相手に伝えると、それが実によく当たるので相手は驚き、噂が噂を呼んでいきました。先代のもとへ、いつしか次から次へと人が訪ねて来るようになっていったのです。

 こうして人の悩みを聞いて解決しているうち、遂に鑑定料三十円という「九州で一番安い易者」として街頭に立っていました。昭和26年8月18日のことです。

 ただ、決して自信に満ち溢れたスタートではありませんでした。眼に現れる幻影だけが頼りという霊感判断は、その日の体調や精神状態によっては明確な回答が見出せないこともあり、自在に自分の力をコントロールすることもできませんでした。的確さにムラがあることは、占いを専業とするにはたいへん不安定で、致命的な欠陥だったのです。

 そんな折、どこで入手したのか「名前というのは大切なもの」と言いながら、母が姓名判断の書かれた薄い一冊の手引書を先代に手渡しました。これが大きな転機となります。名前を数字に変えて解釈することにたちまち惹かれ、いっきに姓名判断へとのめり込んでいったのでした。

 滝に打たれる行を続ける中、次々と発想が溢れ出て、何冊もの大学ノートにありとあらゆる数字の羅列をびっしり書き並べながら、思索を巡らせていきます。そこに秘められているに違いない未知の法則を、ひたすら探求していく途方もない毎日が始まったのです。

 −遺 言−
 くじけそうになるたび励まし、祈りつづけてくれた母でしたが、昭和31年2月、この世を去ります。その最後のとき、母は枕もとに正座している先代へ、次のような言葉を残しました。

母 …
燿齊…
母 …

人のために尽くしてくれ。
人のために尽くすって、何をしたらよいのか。
今の仕事を続けなさい。三年たてば必ず九州一の易者になれる。そして借金も済む。だからお客とのトラブルだけはやめて欲しい。

 心の支えだった母の死は、先代にとって太陽が没してしまったような大きなショックでした。

 −奇跡の夢講座−
 それから50日が過ぎ、お客の相談につまづき、どういう風に回答してよいものかと思案して寝入った翌朝、夢の中に亡き母が現われました。

 「何を悲しんでいるの?しっかりしなさい。その人は目が悪いのです。それに今日の3時に来る人は1200万円の借金で苦しんでいる人よ・・・」夢の中の母が先代へ語りはじめました。名前の画数の解釈方法や鑑定年齢を一つ一つ丁寧に教えてくれたのです。

 この異体験は一度きりで終わるものではありませんでした。朝方、母は決まった時間に必ず夢に現われて次々と教え導き、さらに不思議なことに、教わったことと同じ悩みを持った人が、指摘どおり必ずその日の午後になると訪ねて来ました。

 生前の母は占いに興味を持っていたわけでも、特別な知識を持っていたわけでもありません。でも、この毎朝1時間にわたる夢講座は、それまで先代の中で複雑に絡み合っていた謎を一つ一つ解き明かし、いつしか大きな一定の法則へと向かわせる、光明と確信とを与えてくれたのです。

 −閃 光−
 そんなある日、先代のもとへ、見知らぬ男がものすごい剣幕でいきなり押し入ってくるという事件が起こりました。夫婦仲の悪さを相談に訪れた女性が、先代のアドバイスを夫であるその男に伝えたところ、回答の真意を誤解し、腹を立ててやって来たのでした。

 男は土足で部屋に上がり込むやいなや、先代に向かい、仁王立ちして凄みます。

 「おまえが桑野か。家内はおまえのことばかり信用して俺の意見を聞こうともしない。だから家の中は喧嘩が絶えないんだ。おまえがそんなに当たると云うなら、俺の親父がいくつの時に何の病気で死んだのか当ててみろっ!」

 その背には、ナイフを隠し持っているのが見えました。

 “殺されるかもしれない”― 突然の出来事に咄嗟にそう感じていました。怒りの形相で責め立てる男の問いにも、頭の中がパニック状態となってしまって何もわかりません。冷静な思考など、どこかへ吹き飛んでいました。

 「ナイカクホウでやりなさい」・・・それはまぎれもなく亡き母の声でした。

 −内画法の誕生−
 身の危険を感じ、もうなるようになれと開き直って目を閉じてしまっていた時です。先代の耳元に「ナイカクホウでやりなさい」と繰り返し聞こえてきたのです。しかし、それが何を意味しているのか、いったい何を伝えようとしているのか、ちっとも解かりません。

 “もう、ダメだ…” 

 目の前の男がジリジリとにじり寄り、いよいよ切羽詰まった瞬間です。いきなり火が噴き出したような熱く鋭い感覚が、先代の体の中をビリビリッと走り抜けたのです。

 同時にある確信が沸き起こりました。ペンを掴んだ手が動き、幾つかの数字を書き並べていきます。

 「お父様は53歳の時に胃癌で亡くなりました。そしてあなたは、48歳で病気を・・・」

 途端に、目の前の男は両手を畳につけて頭を垂れたかと思うと、ガタガタ震え始めました。先代が出した答えは、ずばり的中していたのです。

 その夜、母の霊前に手を合わせて礼を言い、「ナイカクホウという鑑定術を生涯賭けて育てるから教えて欲しい」、そう願いました。この日以来、先代の研究は、実績を重ねながら揺るぎのない確信へと形づくられていくこととなります。

 「ナイカクホウでやりなさい」・・・・・この亡き母の啓示を受けて内画法(ないかくほう)という名称が付けられ、それまでどこにも存在しなかった緻密でロジカルな姓名判断が発明されたのです。

<継 承>編へ続く
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